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2009年9月10日

シベリアの歴史

シベリアには旧石器時代、現在から5万年ほど前から人が住んでいた。当時生きていたマンモスの狩猟も行っていたと考えられている。また新モンゴロイドはシベリア周辺で当時の特に寒冷な気候に適応した人種であるとの考えが有力である。一部の人々は1万年ほど前までにベーリング地峡(現在ベーリング海峡)を渡り、アメリカ先住民の祖先となった。イヌイット(エスキモー)の祖先は、さらにその後シベリアからアメリカ大陸・グリーンランドへ渡ったとされる。

青銅器時代になると西方に起源するとみられるアファナシエヴォ文化などがシベリア南部でも栄えて牧畜・農耕が盛んになり、またシベリア独自の文化も生まれた。その後南部では遊牧的な生活様式に移行したとみられ、特に西方のスキタイ騎馬文化の圧倒的な影響のもとにスキト=シベリア文化(パジリク文化やタガール文化)が生まれた。モンゴル付近にいた匈奴もこの文化の影響を受けて大遊牧国家を造り、その子孫はフン族となったといわれる。

中国の文献によれば、漢代に丁零がシベリア南部からモンゴルあたりに栄えたとされ、これはテュルク系民族と考えられている。6世紀には同じテュルク系の突厥がこのあたりに建国し、以後テュルク系遊牧民族は西方に広がったが、現在でもシベリアにはサハ人などテュルク系民族が多く住む。一方シベリア東部ではツングース系民族が、バイカル湖周辺ではモンゴル系民族(ブリヤート人)が広がった。古シベリア(古アジア)諸族と総称される人々も、今日ではごく少数にすぎないが、古くははるかに広い範囲に住んでいたと考えられている。

東部沿海地方・満州方面のツングース系と見られる人々は周代から粛慎として文献に現れ、その後挹婁・勿吉・靺鞨・女真といった名で長く記録を残している。特に一部は金および清の王朝を築いて中国を支配した。中国三国時代の満州方面にいた扶余の民族系統は不明であるが、彼らは朝鮮の高句麗・百済、さらに満州・沿海地方南部を中心とする渤海の王朝を築いた。

中世にはシベリア南部がモンゴル帝国、次いで元朝やジョチ・ウルスに支配された。15世紀には、ジョチ・ウルスの流れを汲みテュルク系民族を中心とするシビル・ハン国がシベリア中央部のオビ川流域周辺を支配し半遊牧国家を形成した。

最初にロシアからシベリアに侵入したのは正規ロシア軍ではなく、ストロガノフという商人の私兵である。当時すでに枯渇していたウラル以西の毛皮資源に替わる、豊富な毛皮資源を求めたためだった。そしてシビル・ハン国が1572年に毛皮の朝貢を拒否したことでロシアのシベリア侵攻は決定的となった。この時のロシア人私兵はコサックと呼ばれ、これらを率いたコサックの首長イェルマークによりシベリア征服が進められた。イェルマークは1578年10月に東進を開始し、シビル・ハン国を攻撃、イェルマーク自身は途中戦死するものの、ついに1598年シビル・ハン国は滅亡する。その後ロシア人は東進を続け1636年にはオホーツク海へ至り、シベリア全土を征服した。これ以後この地はロシア人の植民地となる。

その結果、領土が近接することとなった清とはたびたび武力衝突した。ロシア帝国はコサック兵ではなく正規ロシア兵を送りアルバジン、ネルチンスクの両要塞を建設するが、清の康熙帝は対抗して1685年に武力をもってアルバジンを破壊。事態を重く見たロシア帝国は1689年(康熙28年)に清とネルチンスク条約を締結し国境線を外興安嶺に制定した。

19世紀になり、ロシア帝国は清の弱体化に乗じ、1858年のアイグン条約にてアムール川北岸の地、1860年の北京条約にてウスリー川東側の沿海州の地を清より獲得した。

1917年に起きたロシア革命後、一時極東共和国や沿海州共和国などの諸政府が成立した。しかしいずれも長続きせず、ソビエト連邦成立の過程で消滅した。

なお、ロシア革命後の1918年から1922年にかけ、日本はアメリカやイギリスなどと共にシベリアに兵士を送っている。いわゆるシベリア出兵である。また、第二次世界大戦のソビエト参戦後、ソ連軍に捕らえられた日本兵がシベリア抑留されている。

20世紀に至りアフリカ・アジア諸国の植民地は次々と独立したが、シベリアの先住民族や植民者による独立国家は建設されず、ソビエト崩壊の際もロシア連邦内にとどまった。そのため、いまだ民族独立国家をもたない世界最大の植民地との見方もでき、一部にはシベリアの民族独立を訴える人もいる。

ただし、経済的に自立が困難な地域が多いこと、そもそも現在では先住民族よりロシア人の人口比率が高い地域も多いことなどから、チェチェン共和国などのように独立要求が先鋭化している地域はない。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

シベリアの歴史について調べてみました。

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2009年3月 5日

ホームページ制作 庭野ゴーゴーダンサー大好き

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2008年4月 3日

経済学の重商主義学説

こんなこと習っていなかったよ。
教えてもらえなかったこと知ると少し得した気分ですね。


経済学は法学、数学、哲学などと比べて比較的新しい学問である。近世欧州列強の著しい経済発展と共に誕生し、その後資本主義経済がもたらしたさまざまな経済現象や経済システムについての研究を積み重ね、現代に至る。


重商主義学説
経済についての研究の始まりはトーマス・マン(1571?1641)によって書かれた『外国貿易によるイングランドの財宝』や、ウィリアム・ペティ(1623?1687)の『租税貢納論』、バーナード・マンデヴィル(1670?1733)の『蜂の寓話』、ダニエル・デフォー(1660?1731)の『イギリス経済の構図』、デイヴィッド・ヒューム(1711?1776)の『政治論集』などに見られるような重商主義の学説である。この時代には欧州列強が海外植民地を獲得し、貿易を進めて急速に経済システムを発展させていた。


重農主義学説
1758年にフランスの重農主義の学派フランソワ・ケネー(1694?1774)が『経済表』を書き、国民経済の再生産システムを解明して、経済学の体系化の発端となった。


イギリス古典派経済学
1776年にアダム・スミスにより資本主義工場生産について論じた『国富論』 (The Wealth of Nations)が書かれ、これが現在の理論化された経済学の直系で最古の理論に当たる。そのためスミスは経済学の父と呼ばれている。経済学では一般的に『国富論』を持って始まりとされる。またデイヴィッド・リカード(1772?1823)の『経済学および課税の原理』、マルサス(1766?1834)の『人口論』や『経済学原理』、ジョン・スチュアート・ミル(1806?1873)の『政治経済学原理』などがスミスに続いて英国古典派経済学の基礎を築いていった。


経済学の分裂
しかし発展過程で大きく経済学は二系統に分かれていく。すなわち「資本主義経済の現象を数値化して分析する」という潮流を受け継いだ、当時イギリスやオーストリアなどで登場した「限界効用」学派を中心とした近代経済学、そして「資本主義の本質を労働価値説に基づいて分析する」という潮流を受け継いだマルクス経済学(政治経済学)である。この二派の系統は、思想的立場、分析手法、理論形態の違いにより対立的な関係のまま発展を続けることとなる。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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